市長コラム(令和7年度)
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令和7年8月

7月17日、ギリシャ共和国オリンピア市から、アリスティディス・パナギオトプロス市長ら中学生を含む全11名の訪問団が来日され、翌18日には、市役所を公式に訪問されました。中学生のホームステイ事業は、平成30年以来7年ぶりのことでした。
ホームステイの最終日21日に行われた同事業の報告会では、オリンピアの子ども達や、受け入れ側の市内のご家庭の生の声を聞くことができて、短期間でこれほど仲良くなれるものかと強く感じ、不覚にも涙がこぼれました。7年前もそうでしたが、私にとっても感慨ひとしおでした。
ギリシャ共和国オリンピアの人々と接していると、さまざまな思いに駆られます。勤勉で時間を守ろうとする我々日本人に対し、時間にルーズ(2度のオリンピック聖火採火式においてもいやというほど経験していますが)、しかし、明るく前向き、楽天的でその時その時を精一杯楽しもうとするその精神。その姿を目の当たりにすると、逆に私たちの日々の暮らしや、働き方は本当にこれでいいのかと考えさせられます。アリス市長は「半年間市長職を入れ替わってみませんか?」と冗談のように発言されました。ひとつ喫煙、飲酒の習慣をとってもそうですけれど、日本人が戦後の長い期間の成果として勝ち取ってきたと思っている生活習慣に対してでさえ、価値観は一つでないのだと気づかされます。
さて、今年度後半のNHK朝の連続テレビ小説{ばけばけ}は、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の妻・セツを主人公としたもの(ドラマはもちろんフィクションです)だそうです。ハーンはギリシャ共和国レフカダ島の出身であり、島根県松江市で日本の昔話や怪談に興味を持ち、濃密な執筆生活を送り、東京都新宿区で没せられました。そのような事情から、きっとギリシャに対する国民の関心も高まることでしょう。
そして再来年には、本市とオリンピア市が姉妹都市提携をして40周年を迎えます。ちょうどロスアンゼルスオリンピックの開催年にもあたりますので、両都市間で民間レベルでの交流も含め盛り上げていこうと、市長同士は同意しています。
国と国、都市と都市の関係は一朝一夕に成るものではありません。両市の先人のご尽力と努力に敬意を表し、未来志向でさらなる友好関係の強化を図っていきたいと考えています。

令和7年7月
今年は盛夏の訪れが早そうです。
真夏の食べ物というと、私にはのど越しがよい「そうめん」と「ひやむぎ」が思い起こされます。
子どものころは、ひやむぎしか食べなかったような記憶ですが、高校に入学し地理歴史研究部に入ってから、古代史の研究のため奈良によく行くようになり、三輪そうめんのおいしさを知りました。冷たく冷やしたそうめんがつるつるとのどを通っていくあの感覚は、暑い夏には格別です。
そうめんには日本三大産地があるようです。播州そうめん(兵庫県)、三輪そうめん(奈良県)、小豆島そうめん(香川県)です。私は最初に言った経緯から、三輪そうめんに一番親しみがあります。古代史のメッカでもあります山の辺の道、三輪大社の付近で夏に食べるそうめんは、汗も引き、一服の涼ともいえるものです。
皆さんは「そうめん」と「ひやむぎ」の違いはどこか知っていますか。その違いは太さにあるようです。JAS 規格に定められていて「そうめん」は直径1.3mm未満の麵を言います。一方「ひやむぎ」は直径1.3mm以上1.7mm未満の麺を言うそうです。ただ、手づくり(手延べ麺)の場合、直径1.7mm未満の麵は「そうめん」、「ひやむぎ」とどちらを名乗っても問題ないそうです。
製法上の違いでは、小麦粉を塩水でこねて生地を作り、油を塗りながら手を使って細く伸ばす麺が「そうめん」、平らな板と麺棒を使って生地を薄く伸ばし、刃物で細く切る麺が「ひやむぎ」とか「うどん」となるそうです。
歴史的に言うと、古いのは「そうめん」のようで、奈良時代に中国から伝わり、そのもとは「索餅(さくべい)」と呼ばれる菓子だったようです。
「ひやむぎ」の起源は室町時代にさかのぼり、麦粉だけをこねて「索餅」のように細く切った麺「切麦」が生まれて、それを冷やして食べる「ひやむぎ」が生まれたとのことです。
7月7日は、全国乾麺協同組合連合会が定めた「七夕・そうめんの日」です。七夕にそうめんを食す習慣を持つ地域もあるようです。中国の言い伝えでは、7月7日に亡くなった帝の子どもの霊が疫病を流行らせたため、好物であった「索餅」をお供えしたところ疫病が治まったことから、それ以降七夕の日に無病息災を祈念して「そうめん」を食べる風習ができたようです。
いずれにしても、さっぱりした「そうめん」、「ひやむぎ」を食べて暑い夏を乗り切りたいものです。

令和7年6月
6月、梅雨の季節です。この時期毎年日本のどこかで洪水被害が起きていることに心を痛めています。
以前にも一度このコラムで書いた藤沢周平の「蝉しぐれ」の中には、主人公の父が大雨の時、あらかじめ切ると決めてあった河川の堤防を農地の少ない場所で切り、城下を守り農地の被害も最小限にとどめたという描写があります。このような手法は現代ではもう使われませんが、かつては水防の常とう手段だったようです。実際江戸時代、木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)において堤防の高さには差があり、木曽川左岸の堤防が最も高かったようです。その差は三尺(約1メートル)あり、御三家である尾張徳川家を水害から守るものであったといわれています。そのため美濃(現在の岐阜県)側では、輪中堤(集落や田畑を洪水から守るため地域全体を取り囲むように築かれた堤防)が発達しました。
また同じような話としてこの地方には「小田井人足(おたいにんそく)」という言葉があります。庄内川が増水して危険になると尾張藩は、名古屋城下を守るため右岸に住む小田井村(現在の名古屋市西区小田井)の人々に堤を切ることを命じました。人々は堤を切ることによって田畑に被害が及ぶのは自分たちだと、働いているふりはしましたが、わざと時間をかけ水が引くのを待っていたそうです。そのようなことからこの地方では働かない「なまかわ(怠け者)」な人足を「小田井人足」と呼ぶようになったという、地元の人にとっては不名誉な話です。
そのような過去から最近では「流域治水」という考え方が主流となってきました。
国土交通省は、地球温暖化など気候変動による災害の頻発化・激甚化を踏まえ、堤防の整備、ダムの建設・再生などの対策を一層加速するとともに、集水域(雨水が河川に流入する地域)から氾濫域(河川等の氾濫により浸水が想定される地域)にわたる流域にかかわるあらゆる関係者が協働して水害対策を行う考え方に大きく舵を切ってきました。これを流域治水と言っています。
どこかにあらかじめ被害を受けるところを作っておくのではなく、関係者が協働して被害の軽減を図る、新しい時代の水害対策は時代に合わせ大きく変化しているのです。

令和7年5月
風薫る5月です。皆さん5月病などにかからず、さわやかに活動したいですね。
今月は4月12日に山形県天童市にて開催されました「織田信長サミット」について書きたいと思います。
まず「織田信長サミット」とは何かですが、信長ゆかりの自治体の関係者が一堂に会し、歴史と文化土台に魅力あるまちづくりを共に考え、交流を深めていくことを目的としたもので、信長生誕の地を観光の目玉にと考えている本市にとっては初めての参加となりました。参加自治体は山形県天童市(今年の開催地で織田宗家が治めた織田藩最後の地)、群馬県甘楽町(かんらまち、信長二男信雄を初代藩主として8代152年にわたって織田家が統治した小幡藩の所在地)、静岡県富士宮市(本能寺の変で発見されなかった信長の首を持ってきてつくったといわれる西山本門寺に信長公首塚がある)、名古屋市(勝幡城で生まれた信長が移り住んだ那古野城の所在地)、愛知県清須市(那古野城から移り住み尾張の中心として発展した)、豊明市(上洛を目指した今川義元を破った桶狭間の合戦が行われた場所)、小牧市(信長が初めて自ら築城し城下町まで整備したといわれる小牧山城がある)、岐阜市(天下統一をめざし稲葉山の頂に岐阜城を築き賓客をもてなした、楽市楽座もここから始まったといわれる)、福井県越前町(信長をはじめとする織田一族の発祥の地とされる、劔神社が氏神)、滋賀県近江八幡市(本能寺の変によって失われたが、信長が人生最後に築城した豪華絢爛な安土城があった場所)、信長生誕の城勝幡城のある本市も含めて11の市町で構成されています。
織田信長は天文3年(1534年)に稲沢市と愛西市の境にある勝幡城で生まれたことが今や学会でも定説となっています。また来年のNHK大河ドラマは信長に仕え、その後天下統一を果たした豊臣秀吉とその弟秀長を主人公とした「豊臣兄弟」と決まっており、この尾張地方が前半の主な舞台となることが予想されます。信長公生誕の城「勝幡城」にも脚光が当たり、本市にも歴史好きな方々がたくさん訪れてくれないかと期待しています。
そして、あと9年後の2034年は、信長生誕500年の記念の年となります。この年を何とか盛り上げることができないか、作戦を練っているところです。
歴史好きな人にもいろいろな時代の愛好家がお見えですが、戦国時代は武将やそれを取り巻く女性たちにも夢やロマン、悲劇もあり、特にファン層が厚いといわれます。「織田信長サミット」に参加したことをきっかけに、本市の夢も広がっていくといいですね。

令和7年4月
4月1日、令和7年度が始まりました。
新しい年度、公務員にとっては今年2度目の正月が来たようなものです。
市民のことをまず第一に考える公務員として、我々稲沢市役所職員は今年度も全力で職務に専念いたします。
さて、ビッグプロジェクトの話題を2つ。
一つは新濃尾大橋の完成です。長きにわたり仮称新濃尾大橋と言ってきましたが、この度仮称が取れ正式名称が新濃尾大橋と決定いたしました。この橋を含む現道は県道羽島稲沢線で、橋はなくとも西中野渡船によって交流が続いていましたが、今回の架橋整備によって一宮市、稲沢市と岐阜県羽島市を結ぶ太いパイプが出来上がることになります。そして慢性的に渋滞していた濃尾大橋の混雑解消が図られ、ヒトモノの行き来が活発に遅滞なく行われようになることに大きな期待が寄せられます。5月24日に予定されている開通式が待ち望まれるところです。
そしてもう一つのビッグプロジェクトは一宮西港道路です。一宮西港道路は名神高速道路一宮 JCT から東海北陸自動車道を南進する形で伊勢湾岸道路に接続する高速道路で、この3月に国土交通省社会資本整備審議会 道路分科会 中部地方小委員会において3つあったルート帯案が、中央ルートに決定いたしました。
この案は総工費1兆2500億円から1兆5000億円が見込まれるとともに、集落・市街地を極力回避し人口集中地区の通過面積は最も少ないものとなっています。日本最大の海抜0メートル以下地帯面積を誇る西尾張地域の住民にとって災害時の避難路、救援物資の輸送、あるいは一時避難場所としても活用が可能かと期待を寄せるところでもあります。
一方で産業力強化の点でも大いに貢献します。東海北陸自動車道一宮 JCT から名古屋港(鍋田交差点)の所要時間が現状65分かかっていたものが約17分に短縮され、交通の速達性、定時性が格段に向上します。また、物流交通と生活交通の分離が図られ、一般道の渋滞解消や交通事故の減少が見込まれます。
本市にとっては市を縦断する初めての自動車専用道路の建設であり、その与える影響や効果については計り知れないところではありますが、期待が圧倒的に大きいことは事実です。完成まであと何年かかるか予想できませんが、私たちの心を揺さぶるビッグプロジェクトであることは間違いありません。