稲沢のむかしばなし 美濃路と稲葉宿(稲沢市稲沢町)
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いまから三百年くらい前のこと。
日本の多くのたいせつな街道(たいせつな道)が、きちんとされました。やじさん・きたさんでよく知られる東海道もこの一つです。稲沢を通る美濃街道は、今から四百年ほど前、織田信長の時代にできたといわれています。この美濃街道は、東海道と中仙道をむすぶたいせつな道でした。この街道は、いまの、名古屋市の熱田のあたり、宮というところで東海道とわかれていました。そして、清須(きよす)と稲沢の稲葉を通り、萩原と起(おこし)をへて、岐阜県の垂井で中仙道といっしょになる道でした。この美濃路を多くの人々がりようしました。りようする人の中には、よく知られている人もいました。徳川家康が関が原の戦いに勝って、江戸に帰るときにつかわれました。三代将軍・徳川家光も京都の天皇にあいに行ったときにも、この街道をつかいました。また、たくさんの大名が、参勤交代のときにつかいました。参勤交代とは、江戸幕府が、大名を自分のお城と江戸のお城に一年こうたいですまわせたものです。このように、よく知られている人たちのほか、たくさんの旅人がこの美濃街道をつかいました。
こうした旅人や大名がたびをするには、いまのホテルのように、とまるところがいります。このとまるところを昔は、宿場といいました。美濃街道にも、たくさんの宿場がありました。そして、稲沢にも稲葉宿(稲沢市の本町通りのあたり)がありました。稲葉宿には、大名や家来がとまる本陣や脇本陣が一けんづつありました。また、たびをする人たちがとまるはたごは、七けんもありました。
稲葉宿で一番大へんなときは、大名たちがとまるときでした。こんなときには、近くの村も大へんです。大名やたくさんの家来たちのつかうものをただで出さなければなりませんでした。うま・わら・ふとん・食べものなど、いろいろなものを近くの農民がだしたのです。
このようなことがかさなって、農民のくらしは、ますますくるしくなるばかりでした。
侍の時代には、農民がぎせいになって、世の中がなりたっていたのですね。