稲沢のむかしばなし 祖父江の竿鷹(祖父江町北方)
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むかし祖父江の北方に、横井作左衛門時久という鷹狩りの上手なおさむらいがすんでいました。
大坂での戦で大きなてがらをたてたので、尾張のお殿様におつかえすることになりました。
作左衛門は、若いころから、鷹をつかった狩りが大好きでした。ひまをみつけては、馬を走らせ、鷹をこぶしにのせて、カモなどをとっていました。
ある日、いつものように名古屋城の西の方にある、江川のほとりを鷹と歩いていると、おばあさんが、竿の先に布をつけ川で洗っているのを見かけました。
そのときのこと。
水辺にいたカモが竿と布のおどろいて飛び立つとどこからともなく隼が舞い降りてきて、カモをつかまえて、さっと飛び去っていったのです。
「こんなことがあるんだなあ。これは狩りに役立つかもしれない」と考えた作左衛門は、さっそく隼をかいならしはじめました。
ちょうど、一年が過ぎたころ。竿の先に布をつけ、「それゆけ」と隼をはなしました。隼は飛び立つと同時にすっと舞い降りて、作左衛門の思った通り、水辺のカモをつかまえたのでした。
うわさを聞かれた尾張藩初代のお殿様である徳川義直公は
「作左衛門、おもしろい鷹狩りをするそうだのう。見せてみい」と、おおせになりました。
「御意」と、作左衛門は、お殿様の前で新しい鷹狩りの術をお見せしました。
お殿様は、そのみごとさに感心されて
「みごと、みごと。今日からそちを鷹匠頭にする」とお命じになりました。
ところが作左衛門は、
「お待ちください。わたくしは、もはや年寄りでございます。わが子に、この術を伝授しますので、それが終わってからお申しつけください」と、おことわりしてしまったのです。
鷹狩りは、大昔からおこなわれていました。
しかし、作左衛門のころには、ただ狩りをするだけでなく、うつくしさや勇ましさ、形のよさがよろこばれるようになっていました。
そこで、作左衛門は、誰にも負けない鷹狩りの術をつくろうと思い立ちました。
その術は、さらに二年をかけて、みがきあげられ、白い布を長さ三メートルほどの竿の先につけ、カモやウズラのひそむあたりでふりおろすと、羽をすぼめるようにして舞い降りた隼が、飛び立ったカモをしとめるのです。
百発百中でした。
これに自信をえた作左衛門は、すべてを息子に教えこみました。
そして、息子とともにお殿様の前に出て、
「わが子、時有でございます。竿鷹の術、すべてを伝授しました」と申し上げました。
お殿様はおよろこびになられ、時有を鷹匠頭におとりたてになりました。
それからは、横井家が代々鷹匠頭を受けついでお殿様におつかえしたのでした。