稲沢のむかしばなし 姉宮のなげき(稲沢市今村町)
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明治時代のはじめごろ、外国から、はたおりのきかいが、つたわりました。ちょうどそんなころ、いまの今村町では、二つのお宮を一つにしようという話が、もちあがりました。
これは、二つのお宮のおねえさんにあたる東春日社にまつわる話です。
今村では、100年ほど前から、はたおりをする、のうかがあらわれた。やがて、日本のきんだいかがすすむと、せんいさんぎょうが、さかんになってきた。このようななかで、今村でも、のうぎょうをやめて、はたおりだけをする人たちが、あらわれた。
そんなある日、庄屋さんの家で話しあいが、おこなわれた。
「きょう、あつまってもらったのはなも。みんなで、村にある二つのお宮について話しあって、ほしかったからじゃ」
「村にお宮は、一つでええ。二つもいらん」
「わしも、そう思う。まつりのたびに、お金もかかるし、ムダが多いでなも」
「そうじゃ、そうじゃ」
ということで、お宮を一つにすることにきまりましたが、村はまっ二つ。
「東春日社は、あねさんじゃ。一つにするなら、ひがしのお宮さんにすべきじゃねゃあか」
「そんなこといかすか。村ぜんたいのこと考えりゃあ、西春日社にきまっとるがなも」
こうして話はまとまらないまま、一か月がすぎた。その間、村では、お宮の話でもちきりで、けんかする人もでるしまつ。
けっきょく、村のほぼまん中にある西春日社に決まった。それから一か月がすぎ、姉宮の東春日社は、とりこわされ、あとかたもなくなった。
それからというもの、村では、へんなことばかりつづいた。
はたをおっていても、プッ・プッとよく糸がきれる。やっと、ぬのになっても、ひどいできあがり、というありさまです。はたやのなかまが、あつまると、
「きのうは、ひでえできだったのお」
「どえらい金を、そんしたでなも」
という話ばかり。
半年もたつと、佐吉さんの家は、はたをおるのをやめてしまった。
「きっと、姉宮さまが、ないておられるだ」
「そうじゃ、むかしから、わしらをまもってくれたお宮さまじゃったからのお」
このような話が、村でうわさされるようになると、心ある人たちは、宮のあとをおはらいしてもらうことにした。そして、宮あとの石を、家にもちかえり、かみだなにまつったということです。
それからは、しょうばいが、じゅんちょうに、いったということです。
いまも、村人のまつったセキヒが、東春日社のあとちにのこっています。