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濃尾地震

 1891年(明治24年)10月28日午前6時37分頃に国内最大級の内陸型地震が濃尾地方で発生しました。震源は岐阜県本巣郡根尾村(現・本巣市)でマグニチュード8.2と推定され、濃尾平野の広い地域で震度6以上の揺れを生じ、特に大垣市から稲沢市にかけては震度7の強い揺れが発生し、多大な被害が出ました。岐阜県・愛知県での被害が甚大であり死者約7,300名、負傷者約17,000名、全壊家屋約142,000戸に及びました。また、地盤の状況が地震被害に大きく関係しており、沖積平野のような軟弱地盤地域は建物の全壊率が高くなっています。
 濃尾地震は「美濃・尾張地震」とも呼ばれ、「身の終わり(美濃・尾張)地震」とも揶揄(やゆ)されました。稲沢付近では、地震が始まると地割れが起こり、その裂け目から泥水が噴出し、井戸からも土砂が水とともに噴き上がり、土砂で埋まる井戸や水が一滴もなくなる井戸があらわれたといわれており、いわゆる液状化現象が生じていたことがうかがえます。

愛知県内の液状化

 愛知県では39地点の液状化現象が記録されています。現名古屋市では6地点のうち、織豊村(現中村区)では約1,000ヶ所で噴水・噴砂しました。一宮市では4地点、犬山、江南、清須、岩倉、稲沢、祖父江、平和、津島、蟹江においても河川周辺の地域で発生しました。また、離れた場所では知多郡日間賀島(現知多郡南知多町日間賀)で井戸から泥が噴出しました。

 

    濃尾地震による震度分布図      濃尾地震による木造住宅全壊率

    (「いなざわの地盤」(社)地盤工学会中部支部 濃尾地盤研究委員会 稲沢市 1996.3


液状化地図 岐阜・愛知・三重液状化発生地点

(今も生きる、濃尾地震 平成23年10月発行 社団法人 中部建設協会)


濃尾地震当時の液状化記録

東海地方地震・津波災害誌、飯田汲事教授記念論文集、愛知工業大学防災研究室 1985より:飯田汲事

:日本の地盤液状化履歴図、東海大学出版会 p210 1991より:若松加寿江

恵日寺震災記録碑

 恵日寺(えにちじ)(稲沢市西島一丁目52番地)には、濃尾地震の悲惨さを記録した石碑があります。「明治24年10月28日の午前6時に地震が発生し、尾張・美濃地方で幾千万の家が倒壊し、無数の死者が出た」ことなどが記されています。

濃尾震災美談図(市指定文化財)

濃尾地震の当日、稲沢高等小学校の当直をしていた鵜飼金三郎訓導が、倒壊の直前に二階にあった奉安庫から教育勅語をかかえて階段を下りるところです。大阪中学の松原三五郎が夏休みを利用して鵜飼訓導に逢い描いたもので、明治28年の春に完成しました。京都の内国勧業博覧会に入選した作品です。

(昭和45.04.01 市指定文化財指定絵画 縦130.7cm 横85cm

遣跡における地震跡

 尾張大国霊神社(国府宮神社)北東隣で、昭和57年7月~10月に行われた第6次尾張国府跡の遺跡調査で地震跡が検出されました。北東から南西に走る断層、東側が約40㎝沈み、その境目に砂の噴出(噴砂)が見られます。市内で発見された地震跡で最大規模のもので、濃尾地震の可能性が一番高いそうです。

濃尾地震生き証人の記録

【濃尾地震について】浅野國三郎(稲沢市)

 濃尾地震の時七才でした。

 濃尾地震は美濃尾張(名古屋市、津島市、稲沢市、一宮市、萩原町、起町)が被害が大きかったようです。

 遊んでいましたが、上下にゆすりましたから、立つ事が出来ませんでした。

 地震の日はくもり。我家の前が、地がわれ、水の砂が大分出ました。最初、何事が起きたと思いました。

 片原一色にては、四、五軒の家がのこりました。

 地震のゆれは、四、五日続きました。地震の時は、なるべく安全な所にいました。地震の時、上下にゆすりましたから、歩くことが出来ませんでした。前震、余震、小さい地震がつづきました。

 我家の前の畑に小家を建て、町内の人がねました。野天風呂を作り入りました。



【濃尾地震を体験して】加藤す江(稲沢市)

 わたしの家庭が台所で朝食を食べているときに、濃尾地震が起きました。前日の夜にも地震があり、すぐ地震だと思うと共に避難をしました。

 濃尾地震は大きくゆれたので「外に出よう」と立って歩きましたが、歩くことができないので、何度かころび、はって出ました。父親は親せきの子をあずかっていましたので、ひっしで避難させていたことをおぼえています。外に出て、地震が続いてあぶないので竹薮に行きました。何度も何度も余震が続き、危険とおそろしさのために、竹薮での生活が七日七夜続きました。雨のため中止し、家での生活がはじまりました。

 地震のために家がこわれたり、かたむいたりしました。野崎では数家の家がたおれました。やぐい家はたおれ、丈夫な家でも、かたむいたり、ひさしがおれたり、戸や障子、壁などがおちたり、まがり、たいへんでした。

 一家の井戸の中より、水がむくむくとわきでていました。多数の井戸は泥水でした。地われした所から、水がふきだしているところもありました。その中で、村人は津波がうちよせるといううわさがおこり、落ちつかない日々でした。

 竹薮での生活をするために、小屋をつくりました。小屋というのは、戸でかこい、むしろをひき、屋根も戸をあてたもので、食事をつくるために瓦でかまどをつくり、火がたけるようにしました。必要なものは家から持って来ましたが、家に入るにも戸があかなかったりするので大変でした。幸い、野崎では火事がなかったので、家がこわれたり、たおれても必要なものは手に入りました。余震など続くなかで、生活に必要なものを確保する仕事をし、野良仕事はしなかったと思う。夜などはおちついてねていられなかったようでしたので、仕事などはできる状態ではなかった。

 地震がおさまり、家を建てたり、直したりするようになると、伊勢の大工さんにたのむ家が多く、どの家もつぎつぎになおしていきました。村にある寺の本堂は、そのときに建てたものです。

一、野崎で死んだ人はいなかったが、けがをした人は多かった。

二、屋根瓦が落ちた家が多かった。ひさしがおれたりした。

三、昼間は竹薮の中で生活し、夜は安心してねていられなかった。



【濃尾地震の思い出】山内はま(稲沢市)

 地震の時、私は六才でありました。地震に合った時の住所は、中島郡祖父江町大字祖父江字居中という所に住んでいました。家族は、祖母と両親と私と妹の五人でありましたが、地震の当日は、父は名古屋に行って留守でありました。

 母は四才の妹を負ぶって、朝食前に近く(五○○メートル)のお寺に朝詣りに行っていました。祖母が朝食の用意をし、お仏壇にお供えをしていた時、ドドドド……と物凄い大きな音がしてきたと思ったとたん、食卓について食事をしていた私の体がふらふらと揺れましたので、どうなった事かと、地震を知らない私は只驚いていたら、祖母が私の体を引づって外に出してくれると同時に、二人共倒れてしましました。揺れがひどく、立つ事も歩く事も出来ず、そのままじっと揺れのおさまるのをまっていました。どの位揺れていたか解りませんが、暫して揺れが止んだので、立って見ると、家が倒れて居り驚きました。母もお寺詣りから帰って、二人の無事な姿を見て、よかったよかったと喜んでいました。

 幼少の時の事で、詳しい事は覚えていませんが、当時は電気もなく、ランプ生活をしていましたが、地震のため付近の家は大半以上倒れたと記憶しています。地震の時、大半の家が倒れたが、家の倒れる大きな音が殆んど耳に入らなかった事を不思議に思っています。二日目の昼頃、隣の家が倒れた時には大きな音がしました。

 地震当日の母の話によると、お寺詣りの帰る途中、西の方よりドドドド……と物凄い地なりというか音がしてきたと思ったら、体がぐらぐらと揺れ、立っていられない程であったが、丁度道路端の杉の木があったので、木に両手でつかまって、揺れの終るのを待っていたら、足元の地面が割れて、土水が吹上がって来た。また目の前の家が二、三回揺れて倒れたが、ぜんぜん音が聴こえなかった。ほんとにあんな恐しかった事はなかったと話してくれました。

 地震当日は、はっきり覚えていませんが、天気は良かったっと思っています。また井戸水は変化がなかったと記憶しています。

 救援物資はあったと思いますが、はっきりした記憶はありません。何といっても六才の時でありますので、記憶をたどって書きました。

 地震は何時起きるか解らないので、日常より非常持出しを用意して置く事が大切であるので、家族にその事を実施するように話し、万一の時に備えております。



【濃尾地震体験談】飯田かほる(稲沢市)

私は満八才(小学校三年生の頃)丹羽郡穂波村西大海道一三四番戸(現在の一宮市西大海道)で地震にあいました。地震は朝早く、父母は寝ていましたが、私が家の中に逃げこみましたら、早く外に出よと云われました。家の外には大きな亀裂が出来、水が吹き出しておりました。その中に母ははまり、ずぶぬれになって来ました。地震のあった日は晴れでしたが、二、三日たってから夕立があり、竹薮の中に避難しておりましたが、雨のため傘をさして立っていた記憶があります。

地震とその后の余震は一時間程度でおさまり、その間は大変おそろしかった様な気が致します。

家は製糸工場でしたが、工場はたおれず、その後の一年位は学校として使われておりました。

住居は三棟と倉庫が三ヶありましたが、みんな道路側に倒れましたが、その内の一棟は木のそばにあり、それに支えられてか倒れず、その中に地震のあった日から三、四日たってから入り込み、その中で生活しておりました。

食べものはさつまいもを掘って来て、むしたりやいたりして食べた記憶がございます。

当時の家族構成は、両親と女兄弟三人でほかに諸容認が住人程ありましたが、しばらくして皆家へ帰って行ったようです。

以上の外はまだ子供でしたので、くわしい記憶はございません。



出展:「濃尾地震生き証人の記録」愛知県総務部消防防災課編集 愛知県 昭和5410

濃尾地震体験問答

質問 回答者
鈴木秋三郎
(稲沢市)
古川富三郎
(中島郡祖父江町)
遠藤兼平
(稲沢市)
1 地震にあった時の年齢、学年 四才。 十三才。六年生。 八才、小学校一年生。
2 地震にあった場所 稲沢市。 家の中にねて居ました。 岐阜県益田郡下呂町幸田
3 地震の時していた事 ねていた(朝六時三十七分頃) 家の中から飛び出し、かどにころがって居ました。 地震の時は家に居た。
4 地震の日の天気 晴天。 天気は曇り。 その日はくもりの天気でした。
5 こわかった思い出 ゆすりづめだったので、こわかった。 地割れがし、家が倒れました。 体に気付く程度で、恐い思いではない。
6 最初何が起きたと思いましたか 母親が朝御飯を用意していて、起こされた。 地震がおきたと思った。 ぴくっと来て地震だなと思った。
7 地震の時、どのくらいゆれましたか 朝、餅を母親がやいていたので、起こされて、私をだいて三十米程逃げ出した。(二回ころんだ) 立って居ることも、座って居ることも出きず、ころがって居ました。 家の中の掛時計が止った。
8 地震のゆれは、どのくらい長く続きましたか。 毎日三回~四回位ゆすった。約五日位。 一日中ゆれて、びくびくして居た。 一度ゆれただけだった
9 地震の時、どんな点に気をつけましたか 年も小さかったのでおぼえはないが、昔の麦のなぐり台の中へ入ってねていた。 自分の身を安全な所に行った。 長く続けば避難しようと思った。
10 地震の時、歩けましたか 歩けた。 歩けなく、四ツばいではい出た。 普通に歩けた。
11 前震、余震のようす 前震はなし。余震は一日、三~四回。どんどん、ぎしぎしの音があった。 夜明けより~夕方までいすりずめ。 前震も余震もなかった。
12 家族のようす 異状はなかった。 竹やぶの中に小屋を出かし、家族そろってせいかつしました。 当時の家族は祖父母、父母、妹、私、計六人。
13 友だちのようす となりにやぶがあったので、そこで食事を共にした。 ぼくは元気で居るが、友達はどうしたのかと思って心配して居た。 友達の様子は別にかわりなかった。
14 死者、けが人のようす 別になかった。 弟は死亡したが、何のきずもついて居なかった。 死者もけが人もなかった。
15 家が倒れたり、傾いたりしましたか。 本屋(草屋)全部こわれた。裏のひさしのみ残った。離れは裏にまき林があって半壊した。 家はどの家も立って居る家はなかった。 古い家が多少損害はあった。
16 火事のようす なかった。 大牧にはなかったが、となりの村にはあった。 火事は全然なかった。
17 柱がおれましたか 本屋の柱は折れた。離れはまき林にもたれた。 柱がおれた。 柱が折れた様子もなかった。
18 戸があかなくなりましたか あかなくなった。 戸は明きません。 戸は前と変りなくあいた。
19 障子が倒れましたか 倒れた。 障子はメチャメチャ。 障子の倒れもなかった。
20 家具が倒れましたか 倒れた。 家具は倒れました。 家具の倒れもなかった。
21 屋根瓦のようす こわれた。 屋根瓦はすべりおちた。 当時の家は板屋根が多く異常はなかった。
22 窓ガラスはわれましたか ガラスは、昔のことでなかった。 窓ガラスはめちゃくちゃ。 窓ガラスも割れなかった。
23 時計のようす 時計はない。 時計はおち、ふたは割れた。 時計は止った。
24 一階と二階では、どちらが安全でしたか 草屋根のためなかった。 二階の方が安全。 外に逃げるに都合がよい様、一階の方が良いと思った。
25 山くずれ、地すべり、大水のようす 地すべりはないが、地下から水(泥水)が噴き上げて、井戸が埋った。道はまるで川のように流れた。 地割れより水がふき出た。 山くずれも地すべりもなかった。
26 堤防がきれましたか 堤防はない。 堤防がくずれた。 堤防も異常なかった。
27 津波、高潮はありましたか 土地柄関係なし。 津波、高潮はなかった。 山地であったので、津波も高潮もなかった。
28 地割れがあり、地下水がふきだしましたか 地割は、裏の畑に巾一間長さは五十間程(南北)あった。 地が割れたし、水がふき出た。 地割れも地下水もふきだしはなかった。
29 水や食料はどうしましたか 水は、砂をさらえたので不自由はなかった。食料については、共にも持ちより助け合って食べた。 倒れた家の中からさがし出して炊いた。 水や食料に不自由はなかった。
30 着る物はどうしましたか 不自由はなかった。 倒れた家の中からさがし、着た。 着るものにも不自由はなかった。
31 どこに避難しましたか 近くにやぶがあったので、そこへひなんした。 竹やぶの中に避難した。 どこにも避難しなかった。
32 宿所のようす 庭先に小屋を建てて寝起した。 竹やぶにむしろをひいて生活しました。 従来の通り家の中で暮した。
33 家の外で生活しましたか 小屋の中で生活した。 家の外で生活した。 家の中で生活した。
34 竹やぶの中で暮らしましたか 食料のにたきのみした。 竹やぶの中で暮しました。 竹薮の中では生活しなかった。
35 電灯はつきましたか 電灯はなかったので、仏だんの燈火のようなもので油でつけていた。 電灯はつきません。 当時は電燈はなくランプでした。
36 けがや病気になって、どこで手当てを受けましたか けが等なかった。 病気にはならなかった。 けが人や病人はなかった。
37 昼間のようす 異状なく働いていた。 昼間の生活は家の中をかたづけた。 昼の生活には別段変りはなかった。
38 夜の生活のようす 女ははたおり仕事。
男はないので、話をして暮らした。
夜はろうそく、又はかんてらをとばした。 夜の生活も変りはなかった。
39 家を建て直したようす 本屋は倒れたので、古木を使って立てなおした。
離は、半壊なのでおこした。
家はみな建て直した。 家も建て直す必要もなかった。
40 学校のようす 小さいのでわからない。 学校はわら小屋を建て教えてもらった。 学校も別に変りなかった。
41 仕事のよすう 異状はなかった。 畑に行って仕事をした。 仕事も差支えなかった。
42 工場のようす 近くになくわからない。 農業。 当時は工場も会社もなかった。
43 見舞のこと なかった。 見舞品はもらいました。 見舞も何もなかった。
44 地震のあとで聞いたこと 特にない。 聞かなかった。 何も聞かなかった。
45 新聞のようす 新聞はなかった。 新聞はなかった。 当時はまだ新聞はなかった。
46 地震の震源地はどこだと聞きましたか どことも聞いていない。 地震の震源地は地もと、大牧。 だから震源地もどこかはっきりしなかった。
47 お寺や神社のようす お寺は、あみだ堂がこわれた。
神社は、異状なく、鳥居がこわれた。
お寺も神社もこわれた。 お寺も神社も変りなかった。
48 石とうろうや、お墓のようす 異状はないおぼえです。 石とうろう、お墓も何もかもたおれた。 石燈ろうもお墓も変りはなかった。
49 電柱のようす 電気もないので関係なし。 倒れました。 電柱はなかった。
50 道路、鉄道のようす 道路は泥水が流れていた。 道路は地割がし、鉄道は止まった。 道路は変りなかった。鉄道はなかった。
51 車、電車のようす 小車は使っていた(農家用)。
電車は、この付近はなかった。
人力車、馬車はあったが異状はなかった。
車、電車もなかった。 車も電車もなかった。
52 動物や鳥や魚のようす 馬がいた。にわとりは一匹~二匹いたが異状はなかった。 動物は居なかった。 家には動物も飼っていなかったのでわからない。
53 川や池や海のようす 川や池は別に異状なし、海はない。 川や、池は近くにはなかった。 川や池も別に異常はなかった。
54 井戸のようす 井戸が埋ってしまっやので、じょうれんで中の砂を上げて使用した。 井戸水はにごった。 井戸の有る家は少かった。大多数が山からの流れ水を使っていた。
55 空のようす 別に異状はなかった。 曇り。 空の様子も別に異常はなかった。
56 地鳴りを聞きましたか 一日に一回位あった。 地鳴りは聞かなかった。 地鳴りは聞かなかった。
57 光る物を見ましたか 見なかった。 見ない。 別に光るものは見なかった。
58 親が話していたこと こわい話をしていた。 親が話して居た事はこわかった。 両親の話していた事も何にも聞かなかった。
59 地震の体験から、こんなふうにしたらよいということ ? 瓦だと重いので草屋根のほうが軽いのでよいと云っていた。
? 地震のときは外へ飛び出るが、草屋根の方がけがをしないのでよいと云っていた。
家の中から早く出る事。 余り強烈な印象もなかったのでわからない。
60 濃尾地震とほかの地震を比べてみるとどうですか 比べてみると、如何に大きかったことが感ぜられた。 濃尾地震ほどこわかった事はない。 強烈な反応もなかったので比べ様もない。
出展:「濃尾地震生き証人の記録」愛知県総務部消防防災課編集 愛知県 昭和54年10月

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歴史地震記録に学ぶ防災・減災ガイド(愛知県HP内)


問合先 市役所危機管理課

最終更新日 平成26年4月1日