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伊勢湾台風

 昭和34年(1959)9月26日に来襲した伊勢湾台風は、中部地方をはじめとする日本の広い範囲にわたって大被害をもたらしましたが、とくに濃尾平野臨海部の零メートル地帯に発生した史上未曾有の高潮災害の惨状は、50年以上経た今日においても我々の記憶に残っています。人命の被害だけに限っても死者4,759人、行方不明者282人に及んでおり、死者のうち67%に及ぶ3,168人が愛知県民の方々でありました。


写真1 木曽川上流河川事務所『自然と人とのかかわり―伊勢湾台風から40年』”名古屋港上空から浸水した海部郡一帯を望む”



  図1 昭和34年9月26日21時の天気図(愛知県災害誌 昭和45年3月発行)

伊勢湾台風の経路と規模

この台風は、9月21日マリアナの東方海上にあった弱い熱帯低気圧(中心示度1,008mb)が急速に発達して、22日に台風15号(1959年度)となり、23日には硫黄島の東南東約600kmの海上で、この台風の最低気圧である894mbを記録するともに、中心付近の最大風速75m/秒、暴風半径300kmに及ぶ超大型台風となったのです。
 台風15号台風は進行方向を北西から北北西、さらに北北東へ転じ、次第に速度を増して26日には中心気圧920mb、最大風速60m/秒という強い勢力を維持したまま、同日18時ごろに紀伊半島潮岬の西約15kmのところに上陸しました(この時の中心示度は929.5mb)。平均時速65~70kmの猛烈な速さで北北東へ進み、21時には鈴鹿山脈を越え、22時ごろに揖斐川上流に、そして27日1時には日本海へ抜けていきました。(図2)

  mb:ミリバール 1mb1hpa(ヘクトパスカル)


        図2 台風の経路(愛知県災害誌 昭和45年3月発行)

伊勢湾台風の風と降雨

 稲沢市を含む愛知県西部において風速が最も大きくなったのは21時~22時ごろであり、名古屋での最大風速(10分間平均)は21時27分にあらわれ、南南東37.0m/秒に及び、小牧でも21時32分に南37.0m/秒と記録されましたが、特に小牧では21時34分に南60m/秒以上という稀有の値がえられています。稲沢市における風速もこのころ最大になりましたが、その値は図3-1、図3-2に示すごとく、10分間平均最大風速で37.0m/秒内外、最大瞬間風速で50m/秒に及んだものと推定されます。 
 伊勢湾台風にともなう降水量は、台風の規模に比較して少なく、9月26日から27日9時までの日雨量は、図4に示すように、濃尾平野部では稲沢市付近で局地的に200mmに達した意外は100~150mm程度でありました。


図3-1 10分間平均最大風速(m/s)とその風向         図3-2 最大瞬間風速(m/s)とその風向
(愛知県災害誌 昭和45年3月発行)


 図4 日雨量分布図(愛知県災害誌 昭和45年3月発行)

伊勢湾台風による高潮

 伊勢湾台風災害の一つの特徴は、高潮による災害でした。9月26日21時35分には、名古屋港の検潮所で観測された最高潮位は検潮儀基準面上5.81mに達し、当日のその時刻の天文潮位(2.26m)が3.55mも台風によって押し上げられたこと(気象潮)を示しています。言葉をかえれば、東京湾中等潮位(TP)より3.886mも高い潮位になったのです(図5)。この高潮は海岸堤や河口付近の河川堤を各所で破り、怒涛のように名古屋市南部から海部郡にかけての低地部へ流入したものですが、しかし稲沢市域までそれが直接に侵入することはありませんでした。

   図5 伊勢湾台風による潮位変動量図(稲沢市史 研究編三地理 昭和56年3月発行)

愛知県における被害

            県
    区分
愛知県
人の被害 死者 3,168
行方不明 92
重傷者 3,090
軽傷者 55,955
62,305
住家被害 全壊 23,334
流失 3,194
半壊 97,049
床上浸水 53,560
床下浸水 62,831
239,968
非住家 被害 115,600
昭和34年12月31日現在
※ 災害救助法に基く各市町村の報告による。
(愛知県災害誌 昭和45年3月発行)


図6 愛知県内の伊勢湾台風被害分布図(愛知県災害誌 昭和45年3月発行)

稲沢市における被害

         市町
    区分
稲沢市 祖父江町 平和町
人の被害 死者 6 1 - 7
行方不明 - - - -
重傷者 15 2 - 17
軽傷者 24 18 70 112
45 21 70 136
住家被害 全壊 139 49 94 282
流失 - - - -
半壊 182 96 144 422
床上浸水 - - 40 40
床下浸水 - 183 150 333
321 328 428 1077
非住家 被害 339 151 402 892

昭和34年12月31日現在
※ 災害救助法に基く各市町村の報告による。
(愛知県災害誌 昭和45年3月発行)

伊勢湾台風の来襲時の稲沢市の対応状況


写真2 伊勢湾台風の惨状(稲沢市史 本文編下 平成3年3月発行)

 昭和34年9月26日はおり悪しくも稲沢市議会議員選挙の投票日にあたっていました。台風15号(伊勢湾台風)の強烈さも、その進路がこの地方にとって最悪であろうことも、昼過ぎにはすでに予測されていました。
 風雨と倒木のため選挙区からの投票箱の輸送が遅れ、蝋燭の光をたよりに開票事務が開始されたのは、すでに強風の吹き荒れはじめた午後8時15分のことです。ようやく開票が片付くころ、ますます吹きつのる風はやがて10分間平均風速37m/秒にも達したとみられ、大粒の雨はガラス窓を打ち破るかと思われるほどにたたいていました。市の全職員は、非常体制につき、夜を徹して救助対策の手配等に忙殺されました。昭和34年9月27日午前11時、稲沢市に災害救助法が発動されました。名古屋市をはじめ東海地方の被害は甚大であったが、稲沢市域の被害もまた空前のものとなりました。善意の義援金や救援物資が多数届けられました。
 稲沢市は、みずから大きな被害をこうむりながらも、近隣の飛島村の集団避難者1,309名の収容を引き受け、のちのちまで伝えられる友好の絆を固く結びました。これらの避難者のなかには、ゼロメートル以下に住んでいたために、台風以後の一週間ほどのあいだ、食料にもありつけず、所により水深2メートルほどで満ち引きする海水に没したわが家の天井裏で過ごした人々もあったが、10月2日ころから12月20日ころまで、稲沢中学校、稲沢東中学校、片原一色小学校、千代田小学校および大里中学校に分散収容されました。
 台風の被害は、公共の都市施設にもおよび、稲沢市は、15号台風災害救助対策費として、当初予算額ゼロのところ、国庫負担金、県負担金、県補助金および県負担金の合計約19,736千円と市債9,000千円を含めて、追加更正予算額31,523千円を組み、支出済額22,306千円をあてています。市長は、『広報稲沢』第12号(昭和34年10月20日)に「復旧に渾身の努力を捧げ/再び来る災害に強く立ち上がろう」と題して、罹災者への見舞い、市民への激励そして協力者への感謝の言葉をのせました。
 稲沢市は、伊勢湾台風災害による困窮者を対象に市民税の免税措置をとり、また、集団避難者の臨時的雇用促進のための協力を呼びかけました(『広報稲沢』13、昭和34年11月20日)。
 昭和34年10月24日には、午前10時から稲沢市旭町禅源寺で、伊勢湾台風遭難者の慰霊法要がいとなまれ、午前10時5分から、県の合同慰霊祭にあわせて1分間の黙祷が捧げられました。

伊勢湾台風の来襲時の平和町の対応状況

 伊勢湾台風来襲時海部郡鍋田南部の海岸堤防が決壊し海水が強く浸入したので、海部郡は全域、津島市まで浸水し、大海原の観をていしました。この結果海部郡南部は人命、家屋その他、大被害をうけました。したがって各小中学校の生徒、及び父兄の集団疎開が各地へ行われるようになりました。避難者は主として弥富町および鍋田村の一般人と学校児童で、自衛隊の協力を得て、ヘリコプター、舟、トラックなどで町内各小中学校の講堂へ収容されました。
 法立小学校は130名、六輪小学校90名、三宅小学校170名、平和中学校50名、避難滞在中は児童の地元から、慰問、激励のため代表者たちの来村もときどきありました。
 期間は昭和34年10月7日からで、集団避難者、全員帰郷は12月19日でした。避難者の地元からの感謝の声は大きいものでした。

伊勢湾台風後の祖父江中学校(祖父江中学校沿革史より)

 海部郡南部、名古屋市南部は河川堤防の決壊と同時に海岸堤防も決壊し、一時に田畑は勿論、家屋も水浸しに人畜の被害と共に惨状目をおおわしめた。
 本校生徒にも全壊八名、半壊三六名の多数に及んだ。
 九月三〇日自衛隊一〇一部隊、救援のため一時本校に駐留する。(海部郡方面)
 続いて十月一日よりヘリコプターにて被災者の哀れな姿が雨中、校庭に見られるようになってこの台風の脅威を一層身近に感じた。このヘリコプターはこの一日だけでも約八百人(主として弥富町・十四山村等)が空輸したのに、この状態は丸三日間も続いて実に空輸人員は約二四〇〇人、それにトラックで陸送される人合わせて祖父江町救援隊本部(本部は中学校)で取り扱われた人員は、四〇〇〇人に及んだ。容されて一応めどのついたのは五日であった。道路は尚引き続いてに引き揚げや救援トラック等で混乱を来した。本校講堂には三五〇名収容(小中学生、一般合わせて)する。
 一〇月八日何時までもこの混乱を続けても居られないので一時仮入学をして授業を再開することとなった。主として弥富中学校生徒二三三名、他に縁故生徒一二名、計二四五名を駆り入学生として受け入れる。
 この間、文部省施設部長、初等教育局を初め愛知県災害対策本部より或いは直接罹災の弥富町より状況視察や見舞い等絶え間がなかった。
 一〇月一四日には文部大臣 松田竹千代氏を初め、渡辺県教育長、調査官等多数現状視察及び激励のため来校さる。重ねて一〇月二一日渡辺教育長、武陵教職員課次長 野口営繕施設係長等●●

 一〇月二七日 仮入生の慰問神前を兼ねて遠足

 一二月一一日 漸く第一次引き揚げを見る

 塩沢民生部山田尾張事務所長等見送り来校 第二次引き揚げは一二月一九日完了
 ここに漸く避難者も我が家に帰ることが出来た。この間約八〇日、現地の長期湛水は想像さえも出来得なかった。文字通りの未曾有の天災である。
 一方この避難対策に当たった県本部や現場の世話に当たった市・町村や婦人会・青年団・消防団の救援事業も大変なことで想像に余がある。




祖父江中学校に仮入学し、約3ヶ月ともに学んだ弥富中学校の生徒と祖父江中学校の生徒がクラブの練習試合や交流、生徒間のアトラクションを通じて、友情の絆を受け継いでいくことを目的とした交歓会は、台風の翌年から始まり、平成11年40回の記念行事まで、実に40年もの間続けられました。今は祖父江中学校の校庭に記念植樹の桜が残されている。


写真3 祖父江中学校に植樹された桜

片原一色避難所に助合いの善行
―聞くも美わしい― 稲沢タイムス 昭和34年11月21日(土)号所載

 伊勢湾台風で永年住み馴れた郷里を離れて、見知らぬ土地に避難している被災者に全国各地から温い救援物資が送られてくるのを感泣して、荷物についている送り主の荷札を丹念に一枚一枚もぎ取って合計355枚集まったので心をこめた長い長いお札の手紙を書いて送ろうとした感心な2人の被災者のあることを知った。同地区の有力者での製材業の三輪栄一氏はいたく感激して失礼ですが切手にして下さいとポンと3,000円を寄贈したことがこの程村人の知ることなり、美しい心の人達だと話題を投げている。

 美談の主となった2人の被災者は、稲沢市片原一色小学校に避難している海部郡飛島村の避難民。175名の中の同村大宝部落の立木慶一さん(70)と成田藤助さん(71)の両名で、2人は竹馬の友であり幼少の頃から大の仲好であるところから、前記のような善行を思い立ったものである。

 立木◦成田両氏の話

「おほめに預って、誠に恐縮です。私どもは皆さんが肉身のように親切にお世話下さるので、毎日感謝して暮らしております。また全国各地の皆さんから、心のこもった救援物資を送って戴いて、そのまま黙っていることはどうしても私の気が済みませんので、荷物についている送り主の名札を一枚も洩らさずに捨てずにしまっておいたが、さてお札の手紙を出す気になって、校長先生に相談したところ、それは大変結構なことですから私もお手伝いいたしましょうとおっしゃって、手紙の文章を作って下さてました。それから、その文章を被災生徒の中から中学生の皆さんを頼んで355通書いて戴きました。また校長先生から私どもの話を聞かれた三輪さんが、ご親切に3,000円を切手代としてご寄附くださるなど、皆さんのご親切なご協力があったればこそ、出来ましたことで、すべては皆さんの賜で、心から厚くお礼申上げます。」

 三輪栄一氏のお話

「僅かなお金の寄附したことについて、避難民の方々から非常に感謝して戴いて、お恥しい限りです。立木さんや成田さんのご意思に感激して、少しばかり協力をしたまでで、お互いに助け合うこと位は人間として当然のことです。」

 佐藤同校々長の談

「稲沢市でも避難所は5つもありますが、立木さんや成田さんのように、全国各地から送ってきた救援物資についているエフを丹念に一枚一枚取って大事に集めて、お礼の手紙を出すなどという話は聞いたことがありません。私は少しばかりお手伝いしたまでで、お2人と三輪さんに対しては心から頭が下がります。」

 

以上で新聞記事は終っている。三輪氏はその後、数回と飛島村を訪れている。互いに友情の深さをしのばせる話である。今成田氏の手許には当時の関係書類が一風呂敷残っている。この時の、礼状の文面を下に紹介したい。

 今回史上にない伊勢湾台風に伴う高潮で一瞬の間に起った惨事は、正に三百年の歴史にまでかえしてしまった。幸にも各方面からの皆さまの暖かい救護によりまして、私達のぶらくの生き残った者170名が現在稲沢市片原一色小学校の講堂に集団避難いたしております。台風直後一週間は被害地で飲まず食わず、海中に沈没したわが家の天井裏で、手も足も口もすべて大海にのまれ、溝ねすみ同様の生活をしていましたが、漸く皆様に助けられ、10月2日から泥水のない処で3度の食事にありつけるようになりました。早くも1ヶ月余り各方面各地方より食物◦衣類◦日常品の数々に預かりまして、丸裸かの私達もどうにか人間らしい生活が出来るようになりました。本当に皆様の温かいご救助の賜物と厚く厚くお礼を申し上げます。新聞◦ラジオでご承知のように、国を挙げて堤防作りに懸命ですが、依然として潮に洗われ、一家一家と倒れて行く状態です。潮止めが出来て、軒下までつかっている海水が排除できるのは何時のことでしょうか。子どもと年寄りを受持っている私達は、一日も早くわが郷土が現われて帰郷することができ、皆さまのご厚情に酬いることのできるように頑張りたいと存じます。幸い生き残った子ども達も元気を回復して、もよりの学校で楽しく学んでいます。

 誠に簡単で申訳ございませんが、皆さまのご厚情を心感謝いたし、今後共かかる参事を繰返さないように、当局にもお願い戴きますと共に、感泣して元気を出し、復興に遇進いたす覚悟でございます。

    11月5日      愛知県稲沢市立片原小学校避難所

                  避難民総代  立 木 慶 一

                         成 田 藤 助

          本籍地 愛知県海部郡飛島村大字大宝部部落

参考文献等

伊勢湾台風災害記録(昭和45年10月発行 稲沢市教育委員会)
稲沢市史 本編下(平成3年3月発行 稲沢市)
稲沢市史 資料編十七近現代(平成元年3月発行 稲沢市)
稲沢市史 研究編三地理(昭和56年3月発行 稲沢市)
平和町誌 (昭和57年2月発行 平和町)
愛知県災害誌(昭和45年3月発行 愛知県)
災害史に学ぶ 中央防災会議『災害教訓の継承に関する専門調査会』編(平成23年3月発行 内閣府)

関連リンク

歴史地震記録に学ぶ防災・減災ガイド(愛知県HP内)


問合先 市役所危機管理課

最終更新日 平成26年4月1日